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グスク
沖縄が北山、中山、南山の3つに分かれて争っていた時代から尚巴志に統一される頃(14〜15c)の城を駆け足で巡ってきた。 時間が無かったため中山の根拠地、浦添城や中城、勝連城、玉城城は回れなかった。 首里城と今帰仁城以外への路は案内が無いか、あっても不十分なので下調べをしていったほうがよい。かなり迷った。

首里城
守礼の門
歓会門
瑞泉門
奉神門

首里城の門

 首里城は尚巴志以来統一王朝の中心として機能してきたが、先の戦(第2次世界大戦,太平洋戦争) でそのほとんどが破壊されてしまった。 今見られる多くは本土復帰を記念して再建されたものである。首里城の代表的な門を集めた。 守礼の門は1529年(尚清王の時代)作られた城外の門である。 最初のころは「賢待」、後に「里首」、そして、17c半ばからは「邦之礼守」の扁額が常時掲げられた。 左右に獅子像を配した歓会門は城の正門で昔は国王や賓客のみが利用した。普通のものは久慶門から出入りした。 瑞泉門の名は門へ続く石段の右に竜樋(竜の口から水の流れ出る泉)があるところから付けられた。 奉神門は御庭、正殿に通じる巨大な門で、その前に復元された首里森御嶽がある。

円覚寺
円覚寺総門
放生池
放生池の奥にはなにもない
円鑑池と弁財天堂

円覚寺跡

鎌倉の名は貿易を通じて沖縄に知られていた。沖縄の万葉集ともいえる 「おもろさうし」巻18には

勝連は 何にぎやたとえる
大和の鎌倉にたとえる
肝高わ 何にぎや

とある。とのこと。

 円覚寺跡には次のような説明があった。

国宝指定史跡

昭和47年5月15日指定

 円覚寺は琉球における臨済宗の総本山で、山号を天徳山と称した。第二尚氏王統の菩提寺であり、琉球随一の寺院であった。

 尚真王が父王尚円を祀るため、1492年から3年がかりで建立したと伝えられる。開山住持は京都南禅寺の芥隠(かいいん)禅師である。建築の手法は、鎌倉の円覚寺にならった禅宗七堂伽藍の形式を備えており、寺域は約3,560uであった。伽藍は西面し、全面中央に総門を開き、その左右にわき門を備えていた。総門を入ると放生池があり、放生橋、山門、仏殿、竜淵殿が一線上に配置されていた。

 昭和8年に円覚寺伽藍として国宝に指定され、総門前庭の円鑑池やハンタン山の緑に映えて荘厳な寺院であったが、去る大戦でほとんど破壊された。

 現在の総門(県指定有形文化財)と左右のわき門は昭和43年に復元されたものである。放生池(重要文化財)は昭和42年に修復された。橋の勾欄羽目(こうらんはめ)の彫刻は精緻を極め、沖縄の石彫刻美術の最高傑作であるといわれている。

沖縄県教育委員会


南山城(島尻大里城)

南山グスクの階段・石垣・森
小学校での運動会の練習風景

 南山グスクはその名が示す通り三山分立時代、南山の本拠地であったといわれる。 小学校、中学校を建設する際その一部を移動したらしい。道路に面する石垣は当時のものという。 小さな森の中で雰囲気を味わっていると突然、小学生の運動会の練習が始まった。いかにも沖縄という音楽であった*。

*:「城(グシク)まわりのページであった音楽は、「久高まんじゅ主」の ようですね。太鼓の音から察するにパーランク(エイサー)の練習を していたんでしょうか。」とのお便りをいただきました。
島添大里城

大里城跡

 

 山の上に位置する城であった。城主についてはよく分からない。 南山の拠点であったこともあるらしい。

チチンガーを取り巻く石垣
井戸に通じる階段
中の様子

チチンガ−

最初は城壁跡かと思っていたが井戸ということ。降りて中を覗いたが暗くてよく見えない。

 チチンガーは大里城跡の城門近くの城壁外に設けられた降り井形態の井戸で西原集落の共同井戸として使用されていた。築造年代は定かでないが、大里城跡との関係から14世紀頃と推定される。
 井戸の湧水地点は地表から8メートル下にあり、取水池までは琉球石灰岩の岩盤を削って43段の階段が取り付けられている。取水池の岸壁部分は琉球石灰岩の面取り積みの石垣が積まれており、大里城跡の城壁の一部とも見なされている。
 伝承によれば、井戸が城壁外にあると清水が湧き出し、場内に取り込まれると水が枯れたとのことである。また城内のスクヤマヌウカー(御井)が枯れたので築造したとの伝えもある。
 チチンガーは、大里城築城とも密接に関わっているばかりでなく、当時の城と井戸との関係を理解する上でも貴重である。
平成3年3月25日  大里村教育委員会

今帰仁城

今帰仁城城壁
正門脇
志慶真乙樽歌碑
火の神

今帰仁城は13cころ築かれたといわれる。三山分立時代の北山の本拠地である。左端は平郎門(平朗門)のすぐ側の駐車スペースから見た城壁。平郎門は昭和37年に造られたもの。平郎門を通りまっすぐ行くと大庭に至る。大庭の志慶真乙樽の歌碑には「今帰仁の城しむないの九年母 志慶真乙樽がぬきやいはきやい」とある。志慶真乙樽は城主、はん安知*の側室といわれる。歌の意味はよくわからない。他に、火の神を祀った祠の横には今帰仁城の来歴の碑(1749年建立)が立っている。見逃したが北山落城の際にはん安知によって傷つけられたという城の守り神イビもあるという。

*:はん安知は北山最後の王で、1416年に中山王尚巴志に滅ぼされた。

志慶真郭
城壁の上から
あの声の主、どこにいるか分かる?

慶真郭の城壁を上からみたところ(一番左)、降りてそのすぐ側まで行ける(左から2番目)。
城内の至る所であの声が聞こえた。誰もが疑問を持つらしく貼り紙があった。